大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

浦和家庭裁判所 昭和59年(家)1668号 審判 1986年1月20日

申立人 劉玉蘭 外1名

主文

申立人らについてそれぞれ次のとおり就籍することを許可する。

(1)  申立人劉玉蘭について

本籍     埼玉県浦和市○○×丁目×番地

筆頭者    高橋玉代

父      高橋多市、母 葉正英

父母との続柄 長女

名      玉代

生年月日   昭和16年1月29日

(2)  申立人劉玉琴について

本籍     父、母 劉玉蘭と同じ

筆頭者    高橋琴子

父母との続柄 二女

名      琴子

生年月日   昭和19年11月26日

理由

第1申立ての趣旨及び実情

申立人らの父である日本人高橋多市は、昭和14年10月25日中国人葉正英と中国でその方式によつて婚姻したものであり、申立人玉蘭は昭和16年1月29日長女として、玉琴は昭和19年11月26日二女として生れたもので、いずれも日本人であるが、無籍であるので、主文同旨の就籍許可の審判を求める。

第2当裁判所の判断

1  家庭裁判所調査官○○○○○、○○○○○の両申立事件に関する調査報告書等両事件の各記録によれば、次の事実が認められる。

昭和49年4月20日死亡の三島多市(死亡時の本籍茨城県古河市大字○○××××番地の×)は、明治43年2月20日、旧同県猿島郡○○村大字○○○○××番地○○亡小千谷金太同まきの4男として生れ、昭和10年3月12日古河市大字○○××××番地亡高橋安次郎同ヨサと養子縁組をしたうえ、同人らの四女亡ミネ(昭和40年11月11日死亡)と婚姻届出をし、同年4月27日長男吉男、13年1月8日二男正二をもうけた。多市は、当時国鉄○○駅に勤務していたが、妻ミネとの間が不和となり、そのころ単身中国に渡り、○○鉄道株式会社に勤務するようになり、昭和14年ころ○○駅の駅務係の仕事に従事していた。そして同年夏ころ、南京市下関区の飲食店でウエイトレスとして働いていた葉正英(1921年8月21日生れ、現住所南京市○○街××号の××)と知り合い、同年10月25日、下関区○○○××番地所在日本式洋館で、当時の駅長亡東清六(昭和54年11月24日死亡)が仲人となり、助役大川喜三郎ら同僚、葉の養母亡劉王君(1972年死亡)、葉の妹の夫張学範、その叔父張広海が出席して結婚式を挙げ、以後多市方宿舎で劉王君とも同居して夫婦生活を送り、昭和16年1月29日申立人玉蘭、19年11月26日同玉琴をもうけ、同女らを家族ともども父として養育していた。ところが終戦となり、多市は、○○○○公園内の集中営に収容され、昭和21年申立人らを残して日本に単身帰国した。そして、昭和22年8月9日前記ミネと協議離婚、同安次郎ヨサと協議離縁の届出をしたうえ、同月27日亡三島半太郎同まさえと縁組をしたうえ、その長女静と婚姻の届出をし、同女との間に二男二女をもうけたが、申立人らについて認知届をしないまま、昭和49年4月24日死亡した。

他方、申立人らは、終戦後、母葉正英らと共に下関黄泥灘に転居させられ、生活に困り、葉正英は1948年朱国基と再婚し、申立人らはそれ以後前記劉王君によつて養育された。亡劉王君は、1949年10月申立人らを同女の実子として届出たため、申立人らは中国国籍を取得し、常住人口登記表に中国人として記載されている。しかしながら1953年申立人らは中国政府より、日本人として生活困窮のための免費進学が認められ、申立人玉蘭は高級中学校を、同玉琴は初級中学校を卒業することができた。

申立人玉蘭は、1966年2月2日宋耀元(1939年8月19日生れ、工員)と婚姻し、1966年6月21日長男宋仁を、1970年7月11日二男宋勉をもうけ、現在小学校教師として働いている。

申立人玉琴は、1967年11月23日劉文祥(劉功、劉克強ともいう、1945年10月10日生れ、バス会社勤務)と婚姻し、1968年4月26日長男劉牧、1971年1月18日長女劉秀をもうけ、現在南京○○○○蔽に勤務している。

申立人玉琴は、1980年9月ころ、日本大使館領事部及び警視庁に肉親捜しを依頼したところ、警視庁広報課の調査により、前記多市の身許が判明し、前記高橋正二及び多市の兄小千谷万吉の住所氏名の連絡を受け、申立人らと前記正二との間で、兄妹として文通が続けられたが、1983年ころから正二から文通が絶えた。

申立人玉琴は、正二と文通していたころから日本名琴子を称し、申立人玉蘭は本件代理人によつて玉代と命名され、1984年12月ころから日本名として玉代を称している。申立人両名は、いずれも家族と共に日本に帰国永住を希望し、中国残留孤児の国籍取得を支援する会の会員である本件代理人を介して本件就籍の申立てをするに至つたものである。

なお、南京市公証処公証員により、多市と葉とが前記結婚したことについて1985年3月8日付結婚公証書、前記正二らと申立人らとが異母兄妹であることについて1981年8月17日付親族関係証明書がある。

2  上記認定のとおり、血統上申立人らの父は日本人である亡三島多市(旧性高橋)であり、母は中国人である葉正英であるが、両名は昭和14年10月25日、中国において、その方式に従い、多市の上司であつた亡東清六、葉正英の養母である亡劉王君らを証人として公開の儀式である結婚式を挙げたものであるから、日本国法例13条1項但書、当時の中華民国民法(民国19年公布、同20年施行)第982条に則り、両人の婚姻は方式において適法に成立したものと認めることができる。ところが、当時、多市は日本において亡高橋ミネと婚姻し、いまだ離婚していなかつたものであるから、葉正英との婚姻はいわゆる重婚関係にあつたものといわねばならない。そして、重婚は、法例13条1項本文、日本国旧民法766条、780条、中華民国民法985条、992条に照らし、婚姻の実質的要件を欠くものであり、取消事由と定められ、所定の裁判による取消があるまではその婚姻は有効とされている。(なお両民法においても、取消の効力は既往に遡らない旨定められている)そして、多市と葉正英との婚姻が取消された事実は認められない。従つて、申立人らは、いずれも多市と葉正英との有効な婚姻中に出生したものであり、法例17条日本国旧民法820条により、申立人らは出生時多市の嫡出子であつたといわねばならない。従つて旧国籍法(明治32年法律第66号)1条により、申立人らは、出生時父が日本人であつたので、日本国籍を取得したものといわねばならない。もつとも、申立人らは、前記認定のとおり、養母亡劉王君によつて実子として届出られ、中国国籍を取得し、常住人口登記表にも中国人として記載されているが、これらはいずれも申立人らの意思にかかわりなくなされたものと認められ、かつ申立人の意思によつて中国籍を取得した事実も認められないので、申立人らはいまだ日本国籍を喪失したものではないといわねばならない。

3  以上の次第で、申立人らはいずれも日本国籍を有しながら、本籍を有しないのであるから、本件就籍について許可すべきものと思料する。そこで、前記認定の事情から、本籍についてはいずれも申立人らの希望するところを不相当とする理由はなく、申立人劉玉蘭については、氏名高橋玉代、父の氏名高橋多市、母葉正英、父母との続柄長女、出生年月日昭和16年1月29日として就籍させ、申立人劉玉琴については、氏名高橋琴子、父の氏名高橋多市、母葉正英、父母との続柄二女、出生年月日昭和19年11月26日として就籍させるのが相当である。

よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 若林昌俊)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例